なんでもかんでも許す必要はない(人間関係を円滑にするためにどう考えるべきか。)
今日は、器の大きい人(Aさん)と会話した。
第三者(B氏)に対する話題をその人としていた時に、
私がB氏にやられたときに苛立った行為をどうやらAさんは「本気で」なんとも思ってないようだった。
むしろ、Aさんは、その苛立つ行為が「そこが面白いよね」くらいに言っていた。
これを通して、
器が大きい人になると、人間関係が円滑に回り、良いなと一瞬思えた。
Aさんにとっては、B氏をストレスとは感じてなさそうだったからだ。
自分に価値がないと思った時に読む本 P.45
人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ
ロバート・フロスト
なんでもかんでも「心から」許せる もしくは、「別にいいや」と思えるならそうなりたい。そう思えた。
しかし、実際には「心から」は無理だと感じる。
なぜだろう。
わからないが、自分の心が勝手に反応するものは、勝手に反応してしまう。
例えば
50キロ制限の道路を、100キロで私を助手席に乗せていて運転していれば、「この人危ないし、嫌だな」と自然と思うし、
嫌な意味の言葉を言われると、「この人嫌だな」と自然と思う。
つまり、気持ち的には釈然としないが、表面上、がんばって心を作って「許す」ということはできる。
100キロでてても、「本音は嫌だけど許そう(人間関係円滑にしたいから)」と言葉では言うことは可能だからだ。
しかし、その「許し」は冒頭にあげた「器が大きいと人間関係円滑に回る」ということにつながるのかが疑問に思うのだ。
Happier [ タル・ベン・シャハー ] P.188
自分を犠牲にすることで最終的に得られるものは、失意と不幸せのみです。
見かけ上許すことは、自分を犠牲にしているだけなんじゃないか。
どうすればよいのだろうか。
Happier [ タル・ベン・シャハー ] P.190
人間関係は究極の通貨の取引所です。
ほかのあらゆる取引所と同じように、人間関係も、取引を行う双方の当事者が利益を得れば得るほど繁栄するようにできています。
※究極の通貨とは幸せの事です。
もし上記が本当なら、見かけ上許すことは良い取引ができているのだろうか?
いや、そうとは思えない。
相手の行為にに対してストレスを感じるということは、少なくとも相手→自分間の取引には失敗していると言える。
Happier [ タル・ベン・シャハー ] P.191
どのような人間関係であっても、それが繁栄するためには、その中で発生する究極の利益が二人の当事者に均等に分配されなくてはならないのです。
…略…
どのような人間関係のなかでも、ときおり譲歩すること
ーー相手のために、自分の意義や喜びを差し控えることーー
は自然なことであり健康的なことです。
しかし、総合的に見て、究極の通貨面で双方が同等の利益を積み重ねること
ーーどちらもより幸せになることーー
で私たちはより幸せな人間関係を築くことができます。
自分の考えを広げていって、自然と許せる範囲を増やしたりすることは大事だと思う。
(例えば、中間管理職の苦しみを平社員が想像するのは難しいかもしれない。でも、一度そういう立場の人の話を聞いたりするだけでも、「課長も大変なんだな。」みたいに思えるようになれば、納得いかない仕事の指示が来ても、自然と納得ようになったりすると思う。)
しかし、人間の思考の範囲は限られている。
全ての人の立場になるなんてことはできない。
全てのことを自然と許せる状態になるなんてことはならないと思う。
ということを踏まえて、今日の引用部分を再び見ると、
譲歩は必要だが、取引(人間関係)が不当と感じるなら自分を犠牲にしても不幸にしかならなさそうだ。
→無理に器が広い人間になどなる必要はないのかも。
と今日の所は結論づけました。