人間関係において、自分を貫くべきか、貫かぬべきか。
自分を貫くべきか、貫かぬべきか。
これは難しい所だと毎回思います。
どうでもいいこと、ちょっとしたことならまだスルーできますが、そうでないことだからこそ、スルーできないのです。
例えば、必要な要件でメールが帰ってこないとき。
私はイラッとします。
仕事上のことであるなら、しなければならないことなので電話で対応したりしますが、
プライベートなことであれば、しなければならないことではないが、必要なことではあります。
幹事をやるとよくある
よくあるのが、飲み会の出欠をとっていて、返事が来ない。
私は良く幹事をやるのですが、返事の期限を切ったり、2度、3度メールしても帰ってこなかったり、電話して相手がでずに、着信履歴を残しても全く返事がない時もあります。
ただ、単なる飲み会なので
「どうしてもしなければならないこと」
「最悪こなきゃこないで問題がでるわけではない」
「単に後から やっぱくる とか言われると面倒なだけ」
というようなレベルの話なだけに、純粋にどのように、人間関係接していけば良いのか、というのに迷う訳です。
例えば、私には3択が思いつきます。
(1)返事が来なくてイラッとしたことを伝える
→伝えるとそこで、関係に亀裂が生じて、人間関係が終了してしまうかもしれない。相手がもう来る気にならないかもしれない。だから、言いたいことを言うのは恐いという思い。
(2)イラッとしたことを伝えない
→伝えないと、そこで自分の方から「こんな思い通りにいかない相手に関わるのはやめよう」となり、人間関係が終了してしまうかもしれない。具体的には、次から誘う気にならない。
(3)ただ、自分だけが我慢して、次回も誘う
→相手にとっては何も起きてないので二人の人間関係は滞りなく(?)続く訳です。ただし、自分にとっては楽しくない時間が増えます。
つまり、どの道を選んでも、自分にとって良い人間関係が続くことは少ないと思われてしまうのです。
これは、仕事で発生している問題ではないので、お金をもらっているから多少のことは我慢するべし という考えはでないと思います。そこが逆に難しい所です。
イラッとしたときのとっさの対応術 [ 内藤誼人 ]P.185、186
友だちにイヤなことを言われるたび、その友だちと縁を切って、新しい友だちを捜そうとしていると、いつまでも真の友を見つけることはできない。
…略…
自分がやっている解決法が、本当に正しいのかどうか、今一度考えてみよう。
イラッとしたときに、その人との関係を切ってしまうのは、たしかにてっとり早い。
けれども、そんなことをくり返すのは、自分が疲れるばかりではないだろうか。
それにだれとも付き合えなくなってしまう。
だからといって、自分を貫いて、「俺が正しい!」「だからお前は二度と来んな!」みたいに傲慢になっちゃっても、上記のように人間関係円滑にいかないし、疲れてしまう気もしてしまいます。
イラッとしたときのとっさの対応術 [ 内藤誼人 ]P.185、186
イヤなことがあったときに、短絡的に逃げ出すのはやめたほうがいい。
そうではなくて、相手と話し合うようにするのだ。
…略…
やれることは何でもやってみて、相手と縁を切ってしまうのは最終手段として、最後の最後までとっておくのがよいだろう。
…略…
ゴットマン博士によると、本当にダメなのは、話し合いをやめてしまうことであるという。「どうせ話してもわかってくれっこない」ということで諦めたときに、関係は破局を迎えてしまうのだ。
気に入らないことがあれば、語り合うのが正解である。
相手のどこが、どんなふうに気に入らないのかを説明し、むこうからも自分に対して気に入らない点を口にしてもらえばよい。
そうやって語り合うことで、人間関係はより深まっていくものなのだ。
(1)返事が来なくてイラッとしたことを伝える
というのを、「イラッとしたから話し合う」という意識にもっていくのがベターなのかなとも考えられます。
少なくとも、いきなり「もう連絡とらなくていいや!」よりは、まだ前向きです。
制約見解と無制約見解
私は、人間性について制約見解の立場をとっていました。
制約見解とは相手は変わらないと思っている人のことです。
だから、話し合っても無駄だとはなから思ってしまいがちです。
<制約見解>寄りの人は、人間の本性は不変だと信じています。
…略…
人間の本性は変わらないのだから、修正しようとするのは時間の無駄、試みるだけ損をする
<無制約見解>の持ち主は、人間は変わりうるし、改善することができると信じていて、次のように考えます。どんな問題にも解決策はある。自分たちは不完全だとあきらめたり、妥協したりすべきではない。
ポジティブ心理学では制約見解を推奨しているようでした。
(なぜなら、無制約見解は完璧主義につながる考え方なので、なんでも頑張れば思い通りになると思ってしまいがちだからでしょう。)
本題にもどると、
私が、相手が変わらないと信じている所に、しかし、イラッとした時は話し合いで仲良くなって行こう
と思うことはなかなか難しいことです。
「物事はそのものである」ということを認めずに生きていくと、恐ろしい結果を招くことになります。もしもトラックをトラックではないものーたとえば花ーと見なす人がいたら、その人はひかれる危険が大いにあります。
しかし、それでいいんじゃないか という気もします。
人は基本的に他人の意見を聞き入れたりはしない。価値観を変えたりはしない。
という前提に立ったうえで、
自分の不満を話し合いでまずは伝えてみる。
そして、「人は変わらないけど、この人は柔軟な人なのかな?どうなのかな?」
という視点で見てみる。
それが良いのじゃないかと感じました。
(話し合いをしない場合でも、どのみち関係は終了してしまうことは目に見えているので。)
真の友を見つけるための話し合い。
そして、それに応じてくれる人こそ、私・あなたの友になりうる人なのではないでしょうか?
真の友を見つける過程こそが、話し合いと考えれば、話し合う価値も見いだせる気がしました。
イラッとしたときのとっさの対応術 [ 内藤誼人 ]P.185、186
友だちにイヤなことを言われるたび、その友だちと縁を切って、新しい友だちを捜そうとしていると、いつまでも真の友を見つけることはできない。
たしかに、もし、最初は価値観が違っていても、自分の気持ちも理解してくれるような人がいれば、それは人として素晴らしい人と出会えたなって思えますよね。
自分の価値観を貫くために、イラッと来たらダメ元で話し合う。
どうせ話し合わなくても、その人との関係は良好になどなりはしないのだから。
そんな感じが良いのじゃないかと本日の所は結論づけました。